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【2】アメリカのヘゲモニー ―1つの史的脈絡化― 『2.アメリカ“膨張主義”の論理と心理』 中谷義和 (転載)

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/06-6/nakatani.pdfより以下転載
アメリカのヘゲモニー
                      ──ひとつの史的脈絡化──
中 谷 義 和 (略歴:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/07-6/nakataniryakureki.pdf )

2.アメリカ“膨張主義”の論理と心理
諸国はそれぞれに固有の国民形成史を背景とし,特有の国民国家と国家形態の形成と変遷の歴史を辿っている。さらには,形成された国民国家といえども静態的な存在ではなく,一定の自律性を保持しつつも,内的変化や世界システムとの相互関係のなかで自らの構成と再構成を繰り返している(Linklater 1998)。また,この過程において,国家は領域内のローカルな諸勢力の,またグローバルな社会諸勢力との媒介環の位置にあるという点で,一定の自律的な役割を果たすとともに,そのことで自らの形状と構造を変えることにもなる(Cox, R 1981)。この脈絡からすると,アメリカは,それなりに個別の差異ないし個性を有しているし,固有の国民的イデオロギーを宿すことで特有のナショナリズムを形成することにもなる。
「存在しなかった国民国家」が「唯一の超大国」へと転化するには,極めて大きな変容の過程を歩んでいるが,まず,アメリカ“膨張主義”の,いくつかの政治文化的背景を瞥見しておこう。

トクヴィルをはじめ多くの論者が指摘してきたように,宗教と国家との分離は教会と宗派の共同体的コミュナル生活「習慣と慣習(habits and customs)」の基礎となった。また,被迫害者の「丘の上の町」(“約束の地”)の意識は,「プロテスタント的理想社会主義ミレニアリズム」として入植者に共有され続けることにもなる。それが同感の意識として沈積するとき,その心理は同質性の保持と結びついて「習慣」や「伝統」の社会文化的基盤となるだけでなく,その反転として“排除”と“改宗”の使命と論理とも結びつくことで,強力な「エキュメニズム」の心性を宿すことにもなる。この脈絡からすると,“選民”は“異端”に“改宗”を迫ることで内包的同質化と“コンフォーミティ”を促迫するだけに,他による自らの“異端”視化は,同化に応じえないかぎり,宗教的純粋性の保持において別の「丘の上の町」へと脱出せざるをえないことにもなり,E. バークも指摘しているように,多様な「宗派」の族生を呼ぶことになる。ミレニアリズムは社会改革や社会運動の強力なバネとしてアメリカ史に繰り返し浮上するだけでなく,“選民”の心性は,道徳主義的倫理観において,孤立主義と国際主義の,あるいは覇権主義的・例外主義的免除主義の外交姿勢として浮上することにもなる(Augelli and Murphy 1988 : 39-41)。
アメリカは,立憲主義を紐帯とした人工型の市民的国家という固有の国民国家形成史を辿っているだけに,その差異の認識は,比較と同定の論理と心理と結びついて,国民的“固有性”ないし“個別性”の意識として潜勢化することで,いわゆる“アメリカニズム”が形成されることになる。
アメリカは自然的・血縁的与件を国民的“凝集性”と政治統合の擬制原理としてきたわけではなく,アトムとしての個人の人為的結合を社会的紐帯の構成原理とした歴史的「実験国家」であるという性格をおびているだけに,その意識は固有のナショナリズムを生み出すことになる。だが,それが自らの歴史性を解消し,超歴史的“特異性”ないし“弁別性”の意識や固有の「社会法則」の,あるいは「規範民族」の認識と結びつくとき,「アメリカ例外主義(American exceptionalism)」を喚起し,強固な「政治的原理主義」として浮上する6)
また,こうした「例外主義」が「福音主義」と結びつくとき,「規範民族」の意識において“膨張主義”が倫理的に正統視されることになるだけでなく,他との差異と自己確認の意識において強い「ヴィジランティズム(vigilantism)」を喚起することにもなる。アメリカ政治文化のマニ教的特徴のひとつは,認識論的・実践的に,個人主義的主客2分論を基礎とした対象の所有と実験的改良主義に求められる。これがピューリタン的宗教倫理と,あるいはカルバン主義的選民思想と結合することで「定めと義務(destiny and obligation)」の宿命論を形成し,使命の観念として潜勢化するにとどまらず,こうした宗教倫理の世俗内化によってアメリカ資本主義の内発的・倫理的エネルギーとなる。さらに は,「科学主義」が実践的精神と結びつくことで強力な「技術信仰」を生むことにもなる。この点は,ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』において鮮やかに指摘したことである。
また,エマソンの「神学部講義」(1838年)にも自然との一体感が浮上している7)。こうした義務の宿命化の認識と自覚は,さらに,新旧両世界の2分論において南北両アメリカ大陸におけるアメリカの覇権の喧伝(「モンロー・ドクトリン」)から「マニフェスト・デスティニー」論による領土拡大の正当化論に連なり,やがて,F. J. ターナーの『アメリカ史におけ る フ ロ ン ティ ア の 意 義(The Significance of the Frontier in American History)』(1893 年)に 至っ て「フ ロ ン ティ ア 民 主 政(frontierdemocracy)」論が提示されることになる。これは,アメリカ民主政の歴史的起源をタウン・ミーティングからゲルマンの統治形態へと辿る「胚芽(germ theory)」理論を断ち切り,自然との不断の邂逅のなかに,いわば,偶発的な外的条件ともいうべき西部の社会的“安全弁”のなかにアメリカの個人主義的民主政の土壌と基盤を求めるものであり8),いわゆる「アメリカ例外主義」論を経済・社会的背景において論じたという点では,その嚆矢に位置している。この理解は空間的拡大(辺境)に民主政の不断の展開を想定するものであるだけに,空間的・水平的“膨張”の論理と政治体制のヘゲモニー的拡延の論理とは同一次元に設定されることになるし,「平等」の同質化の危険は“獲得”の競争的「自由」を空間的に保障することで阻止されうるという政治心理学的機制となる。また,そのことで「個人」ないし「個別性」が担保されうるという原理と心理を内包することにもなる。

こうした認識は,例えば,ターナーとほぼ同時代人にあたるコングリゲート派の J. ストロング牧師が「蒸気と電気が地球を縮小」するとの認識において,キリスト教文明の世界的敷衍の必要性を指摘しているように,西洋文明の普遍化と結びつくとき,“膨張”の論理はメシア的性格を帯びることにもなる。1950年代の,いわゆる「コンセンサス」史学において,価値体系の1次元的理念史に「アメリカ政治の特質」が措定され(D. ブァスティン),あるいは,“コンフォーミティ”の危惧に発してのことであるとはいえ,アメリカ思想史における「個人主義的自由主義」の歴史的一貫性が指摘されることになるのも(L. ハーツ),こうした知的・文化的な歴史の認識と結びついてのことである(Ross 1991 : 272-74)。

「アメリカ的なるもの」の模索は「正統」と「異端」とを,あるいは「正嫡」と「非正嫡」とを区別しようとする論理と心理を内包し,自らの歴史の遡及的な哲学的・原理的検討へと向かわしめる
とともに,「外的なるもの」の確認を媒介として自らを同定しようとする発想に傾くことになる。こうした心理は,アメリカ社会の人種的・民族的多様性や移民型社会性を背景として,強力な“ヴィジランティズ”の土壌を育て,「妄想症パ ラ ノ イ ド的スタイル」としてアメリカ史に底流することになるし,移行期ないし危機の局面においては,国民的統一の強力な契機として浮上することにもなる(Hofstadter 1963)。
こうした国民性は強力な内発的エネルギーを秘めているだけに,国際システムに占める他者(客体)との関係においては「孤立主義」と「国際主義」という,いわゆる「振り子運動」型の外交姿勢を形成し,前者は,国内諸勢力の圧力や国際的力関係の認識において後者の外延的論理と実践に転化しうるだけでなく,自らのヘゲモニー下における「単独行動主義」というメシア的・帝国主義的超ナショナリズム(supernationalism)として顕在化することになる。そのかぎりでは,両者はコインの表裏の関係にある(Gill, S. 2003 : 40)。

アメリカはヨーロッパの国家権力を逃れた入植者を中心とした社会として成立し,「国民形成(nation-building)」が「国家形成(state-building)」に先行するという特徴にあるだけに,社会中心型の発想に傾くという固有の刻印を帯び,また,国民的紐帯は憲法理念の政治的共有化に依拠せざるをえないだけでなく,自らの歴史的経験は西方の“フロンティア”への入植を望見し続けるという心理を宿すことにもなる。また,「アメリカ合衆国」という連邦国家の国名が「連合した諸国家(United State)」ないし「諸 国 家 か ら な る 国 家」で あ り,「連邦(united states)」ないし「州際(interstate)」とは「国家間」のことである。これがアメリカという連邦国家の基本的政体とされているだけに,国家内国家間の統合と分離との,あるいは単一性と多元性との緊張関係を内包することになるだけでなく,「国家(州)」の複合的構成という基本的政体認識が他国との関係に投射されるとき,外延的包摂の論理と実践に転化しうることにもなる。そして,ヘーゲルが「北アメリカ合衆国は,ヨーロッパ諸国のように,互いに不信の眼をもって眺めあい,常備軍を具えていなければならないような関係にある隣邦というものをもたない」9)と述べているように,北アメリカ大陸のフロンティア状況の認識ともあいまって,自然空間の拡大に対する政治的障害は相対的に小さかったといえる。

B. アダムズは,『新しい帝国(The New Empire)』(1902年)において,「全世界はアメリカに賛辞を送り,貿易は東西に開かれ,古くからの体制は逆転することになろう」と,また,『ライフ(Life)』誌の編集者の H.ルースが1941年にアメリカは「自由と正義の理念の 原動力パワー・ハウス」であり,20世 紀 は「ア メ リ カ の 世 紀」で あ る と 喝 破 し た こ と は 有 名 な こ と で あ る(Rosenberg 1982 : 22)。こうしたアメリカ中心型の世界史観は,新保守主義者たちにおいても,21世紀も「アメリカの世紀」とすべきであるとの判断に継承されている(Project for a New American Century 1997, 1998)。
これはアメリカ人の自己確認ないし希望的観測である。かつて,ヨーロッパの知識人たちは,自らとの比較において,あるいは,「ヨーロッパのアメリカ化」か「アメリカのヨーロッパ化」という点からアメリカを“さきがけ”と「遅参者レイトカマー」社会という両様の視点において捉えていたのであるが(Offe 2004 : 5-6),アメリカが,今や,ヘゲモン的位置にあることに鑑みると,アメリカはどのような歴史的軌跡を辿ることで「グローバル化」のヘゲモニー的位置を占め,その機能を果たすことになったかが問われねばならないことになる。国際(世界)政治におけるヘゲモニーとは,国内の経済社会的編成においてのみならず,これとグローバルな構造との相互関係において成立しうるものである。また,国内の経済社会システムの編成には政治的ヘゲモニーを媒介とせざるをえない。この点で,アメリカは,既述のような固有の政治文化と政治体制や経済社会編成をもって大陸的「 超 国 境 主 義」的エネルギーを不断に蓄積し,やがて,世界システムの変化ともあいまって,グローバルなレベルにおける「覇権」の位置を占めることになったといえる。

以上、転載終わり
3につづく

雑感:自分にとっては非常に不得手な思想史も織りまぜた第二章を読むに、章末を自分なりに簡単に解釈すると、アメリカのヘゲモニーはその国の思想史に刻まれた歴史的構造と構築の過程もさることながら、現在位置を占めているアメリカ的ヘゲモニーは軍事と政治外交が経済という皮を被った軍産複合体のために、一体となった単なる手段に過ぎず、その経済的格差も二極化する中で許容してきた自由と個人主義が極めて厳しいところまで追い込まれ、しかしなおグローバル化という再編をしながら複合体経済を支えるためにそれが政治的手段として強行的に使用され、自らは振り返ることなく、「正義なる資本主義」や「自由な市場経済」の論理(逆から見れば排他的)にすり替えられて国家間紛争を交えながらヘゲモニーを保ってきたような側面。しかしその利益の享受は個人主義のアメリカ国民と矛盾する形で必ずしも総体的に膨らむもしくは全員の幸福に繋がるわけではなく、繰り返される戦争と米国資本主義経済の歴史の中で、とどめを差したようなリーマンショックで露呈した金融の暴走がアメリカ自身を一気に追い込み、国民もだんだんと耐え切れなくなってきた。とはいえ、そのツケを他国に払わすような形での「超国境主義的」な利益追求へ向けて国内矛盾を内包したまま突き進もうとしている。それは露骨にTPPのような経済連携という名の経済戦争に現れている。日本も同じだが第2次大戦以降の総括はアメリカもできていないようだし、それは単にイラク戦争以降を見ただけでも誰でも類推できると思う。選挙前のオバマと当選後の現在のオバマ、政権交代前の民主党と政権交代後の菅政権野田政権、野に下った自民党政権(戦後の総括)が象徴している。今年の大統領選前にしてアメリカ自身がアメリカ的資本主義とヘゲモニーを問われ、岐路に立たされている。オキュパイ・ウォール・ストリートのリーダー的な人物に言わせると「資本主義の崩壊」だそうだ。そのアメリカに盲目的に追随するのはせいぜい外交自主権のない日本ぐらいのもの。それはよく、没落するアメリカに抱きつき心中される日本、というような表現や、あるいは日本自らが嫌々ながらも進んで没落するアメリカの言うことを聞くというようなヒモと娼婦の関係に表現されるところである。


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