Sekilala&Zowie

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【情報利権組織;新聞協会の軽減税率適用を許すまじ】ドイツはナチスに協力した新聞は全て廃刊、新聞人も辞め、ナチス虐殺の責任は永遠に追及。

 ←日本をおかしくしたすべての元凶。

何度も繰り返すしかないのだが、官僚マスメディア複合体は鳩山小沢民主のときには朝から晩までとにもかくにも引きずり下ろすために司法権力も駆使しネガキャンを張った。

目的は戦後続く対米従属「日米安保」「日米同盟」の隷属システムの名のもとでの長年蓄積された利権構造そのものの維持継続のため。もちろんその中に自民党も含まれる。彼らの重大な歴史的責任が免罪されていることのなかで、日本の財界も含む「日本病」はいま復活した。

ドイツはナチスに協力した新聞は全て廃刊、新聞人も辞め、ナチス虐殺の責任追及は永遠に追及。日本は、朝鮮半島における大虐殺や中国への侵略戦争の歴史を修正しようとしている。真に責任を追及することもなく、自ら総括もせず、戦争責任は一部に押し付け、ほかは皆免がれ、または釈放後、アメリカの軍門に下り、官僚組織と報道機関は、未だアメリカの奴隷の具と化している。


    


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彼ら記者クラブメディアは、菅・野田になると「現実的なマニフェスト変更を」と言い、世論誘導を行い、消費増税・TPP推進をアシスト。そしてあらゆる印象操作、情報操作が行われ、三党合意の大政翼賛も「決められない政治の脱却」と言い放ち、菅政権以降の民主党は選挙にことごとく大敗を喫した。そうして菅・野田は自らの党をぶっ壊し、官僚の利するところとなった。その結果として自民党政治の復活。

当初から「アベノミクス」なる中身には消費増税のタイミングを計る安倍自民の矛盾を内包していたが、マスコミは一切それを不問に付した。御用学者も口をつぐんだ。公約違反は火を見るより明らかだった。現在、TPPがまさにその象徴とされているが、それだけではない。結局、そのTPPひとつとっても「聖域の路線変更」と国民を騙しているヤツラ。これがもし鳩山小沢体制だったら、毎日朝から晩までネガキャンを張っただろうことは想像するに易し。

お前らが国民主権の民主主義をめちゃくちゃにした。消費税増税にしても「財政健全化」「プライマリーバランス」「ギリシャ化する」というデマで脅しを散々かけ、自分たちだけは「軽減税率の適用を」と叫んでいる。先に開催された新聞協会によるシンポジウムでも御用学者らが「自由と民主主義社会」のために新聞協会に軽減税率が絶対に必要だ」と主張した。(因みに当方はこのシンポ全編を聞いている)
新聞協会が主催したシンポに参加したこの面々を忘れてはならない。
朝日新聞デジタル:公共性と課税、新聞は 日本新聞協会シン・ジウム2

この中でも特に許しがたいのは左下の戸松秀典という学者だ。彼は、「自由と民主主義社会」のために新聞の軽減税率を、国民に理解を求める前に、国会議員が決断すべきだとなんども強調した。「民主主義のため」と言う傍からその「民主主義」を否定するインチキ学者。この大いなる欺瞞と矛盾には唖然とするひどさだ。Drowning in propaganda

また、高木まさきという人も新聞を学校で子供に読ませることが重要と主張する。これほど国家による洗脳教育の危険性を危惧する主張はない。言葉のシャワーを浴びせるとか、文字を読ませる、活字に慣れさせるためとも言うが、それならば、なにも「新聞」である必要はない。それが新聞には「多様性」があるからだという。

ほかの参加者も似たり寄ったりの倒錯した論理を展開。どの言論も突っ込みどころ満載のスカスカ中身空っぽと言っていい。「自由と民主主義社会」と「新聞」の間には天と地ほどの落差があるのが歴史的事実。

この間の新聞メディア報道は、大本営発表を横並びでしていると批判されているのにどのどこに「多様性」があるのか。登壇者らはどこに目をつけているのか。ネット情報は不確かだと?新聞は「事実」だけを報じている確かな報道だと?記者クラブ記者らは有能なジャーナリストだと?笑止千万。

またさらに日経の長谷部氏はヨーロッパなどは新聞などに軽減税率が適用されていて、それがないのは日本ともう一カ国ぐらいしかないと強調する。これも都合のいい部分だけ切り取って展開したふざけた根拠。

新聞各紙は、この新聞協会のシンポジウムをここぞとばかりに一斉に報じた。だが、当方が確認する限りにおいて、各人がプレゼンを行なったあとに行われた会場とのメモによる質疑応答の部分は「カット」している。これ自体、すでに「言論の自由」や「民主主義社会」を希求することから乖離しており厳しく糾弾されてしかるべき行為だ。

その会場からの質問は、いずれも「新聞は消費税税を煽っておきながら、自らは軽減税率の適用を求めるのはおかしい」といった内容である。

この質問に壇上の提灯持ち学者のいずれも返答に困り、支離滅裂な論理を展開した上で、最後はおまじないのように「自由と民主主義社会のため」と何度も結んだ。日経の長谷川氏は当事者のひとりであり、ひとつの質問には真正面から答えず、論点を逸らし、もう一つの質問に対しては「どうかご理解を」というしかなかった。

本当に腐った連中である。

最後に、報道機関と官僚組織だけが戦前から生き残った組織だと小沢氏が過去に発言したことにちなんで、様々な有識者の方々にIWJ岩上さんが歴史的背景を探っていくと、やはり日本がなぜ周辺諸国に対する侵略戦争の反省と総括をきちんとしないのか浮き彫りになってくる。

その比較として挙げられるのが同じ敗戦国のドイツである。

日本とドイツの戦後処理 http://p.tl/H0fB pic.twitter.com/X6eEBjEciT


以下、こちらから転載。非常に新聞社の当時の内情を詳細に書かれている。

新聞と戦争一日本の大新聞は15 年戦争をどう報道したのか、新聞の良心は・・

2002年10月
静岡県立大学国際関係教授・前坂 俊之

Ⅰ 大東亜戦争終結から五十年、歴史復讐が始まる
① 2 年後の1995 年は太平洋戦争終結から50 年年こ当たる。ここでは太平洋戦争と書いたが、正式には「大東亜戦争」であり、アジア、太平洋の広い地域で戦争が行われ、日本の兵士、市民の死傷者約300 万人、アジア全体でも約500 万人以上にのぼる被害者を出した。
② 「大東亜戦争」を「太平洋戦争」と言い換えているように、「アジア」への視点、アジアの被害、多大な迷惑をかけたことへの反省の視点が欠落している。戦前も戦後もー貫したアジア蔑視、無視の姿勢は変わらない。反省もしない「加害者日本」への不信、批判がアジア隣国からいつまでたっても消えない。
③ 冷戦体制の崩壊によって、第2 次世界大戦の終結で封じ込められていた「歴史のパンドラの箱」が開いた。それはボスニア紛争に象徴されており、近い将来、韓国、北朝鮮の統一によって、歴史の亡霊が再びよみがえってくる。

Ⅱ 日本の新聞は15 年戦争をどう報道したか
「歴史に学ばない国民は亡びる」とは吉田茂首相の言葉だが、戦争を知らずして、平和を語ることはできないし、又、過去を知らずして、将来を語ることもできない。
「水に流す」「過去を忘却する」のが日本人の国民性であり、特に、その無責任体制と加害者意識の欠落、忘却症は被害を受けたアジア各国との意識のギャップを抜き難くしている。 歴史の教訓に学ばぬ国民は再び歴史に裁かれるし、同じ誤りをくり返す危険性が高い。
(イ)日本の新聞は15 年戦争の報道について、自ら検証したのか。残念ながらこの「新聞の死んだ日々」について、自らの恥部として、ふれていないし、自らの戦争責任もタブー視したままである。
(ロ)新聞の戦争責任についての日本、ドイツの比較
ドイツは第二次世界大戦中にナチスに協力した新聞は戦後、全部廃刊となり、新聞人も全員やめた。ユタヤ人虐殺についての責任を永久に追及しているドイツと日本の差は大きい。
(ハ)日本の新聞と8 月15 日
8 月16 日付け敗戦の日の毎日新聞西部本社版の新聞の2 面は、白紙のまま発行された。16 日から20 日まで5 日間、表裏の各所が白紙という異例の紙面が続いた。当時の高杉孝二郎編集局長(西部本社)は「昨日まで国民を戦争にかりたてていたペンで、今さら何を書ける。昔なら切腹ものだ。埋め草は一切いらぬ。発表ものだけでいく」とこの白紙の発行を続けた。
高杉局長は本社に対して「戦争をあおった新聞の責任をとって国民に謝罪せねばならぬ。本社は解散、毎日新聞ほ廃刊、それが出来ぬならば、役員と局長以上の幹部は即時、辞職せよ」と主張した。8 月29 日、毎日は新聞の戦争責任をとって奥村社長、高田主筆、高杉局長、束京、大阪の編集主幹ら5 人が辞任した。
朝日は8 月23 日に「自らを罪する弁」という社説を掲げて戦争責任について国民に謝罪。村山社長以下、全重役、局長、論説主幹らが総辞職した。11 月7 日付の社説「国民と共にたたん」で戦後の再出発を誓った。

Ⅲ 15 年戦争と新聞の戦い、屈伏、協力の3 段階について
ジャーナリズムの戦いは、「5・15事件(昭和7=1936 年)で9O%終わり、2.26 事件(昭和11=1936 年)で100%終わった」といわれる。
(イ)第一期(昭和6 年-11 年)満州事変から2.26 事件まで
戦争へ発展する小さな芽のうちに、これをつぶしていないと、大きく発展した段階ではもう遅い。この点で15 年戦争の発火点となった満州事変で「新聞が一斉に砲列を敷いて軍部の暴走を阻止、あるいは抵抗していたならば、歴史は変わっていたのではないか」―というのは朝日の戦争中の責任者・緒方竹虎の戦後の自責の念による回想だが、この第一期では戦争へと大きく発展する過程で、毎日、朝日などの大新聞は軍部と二人三脚で協力し、ほんの一部「福岡日日新聞」などがだけが抵抗した。ジャーナリズムは敗走し、全体的にはなだれをうって挙国一致へ協力をしたのである。
(ロ)第二期(昭和12~16 年)日中戦争から太平洋戦争の勃発まで。新聞は統制時代に入り、ペン部隊、内閣情報局の傘下にがっちりと組み込まれる。言論の自由は99%息の根を止められた。
(ハ)第三期(昭和16~20 年)太平洋戦争開始から敗戦まで。「新聞の死んだ日々」。二六種類もの言論統制の法規によってガンジガラメにされ、大本営発表、ニ重三重の検閲によって、言論報国、新聞はウソを書き続け、プロパガンダと化した。
・以上の3段階で、メディアの報道の自由の首は絞められていくが、最大のターニングポイントとなった満州事変を新聞はどう報道したのか。どこまで戦ったのか。ここが抵抗のぎりぎりラインである。

Ⅳ 新聞の協力と抵抗
日本を亡国におとし入れた満州事変。中国への侵略は昭和6 年9 月18 日に関東軍の謀略によって引き起こされた。
その背景には「満蒙の特殊権益論」がある。日露戦争で手に入れた満鉄の権益、日本の対ロシアへの防衛線としての満州の立地条件、鉄鉱、石炭など豊富な満州の資源に対して、長年の日中関係の悪化によって中国では「反日」「排日」「日本商品のボイコット運動」など起こり、中国ナショナリズムが高まってくる。
それに加えて満鉄の赤字、大陸経営の危機もあり、関東軍は石原完爾、板垣征四郎らのコンビが「満州国」独立を計画、満州事変をその突破□にしたのである。
(イ)当時の新聞、全国紙は「朝日」(東京朝日、大阪朝日)「毎日」(東京日日、大阪毎日)しかないが、どうだったのか。
「朝日」は米騒動や普選運動をリードし、リベラル、自由立憲、反軍の色彩が強く都市部のインテリ読者らに立脚していたが、一方、「毎日」は商業地、農村部に強く、軍部寄りで「反朝日」に立っていた。
「満蒙は日本の生命線」(当時のキーワード)は松岡洋右が最初に議会で演説したものだが、「毎日」はこのキャンペーンを行った。満州事変勃発までには中村震太郎大尉殺害事件、万宝山事件など前哨戦として起こり、日中関係は緊迫、新聞は戦争ムードをあおり、対中国世論は硬化していく。特に、毎日が強硬路線を展開する中で、「大阪朝日」の高原操編集局長は逆に軍部を批判して、戦争ムードを抑制していた。
(ロ)満州事変の報道について朝日の転向
「毎日」は勃発と同時に関東軍の軍事行動を正当防衛として即承認し、強硬姿勢に終始する。又、中国側が国際連盟に提訴して国連が事変に介入することも断固排撃した社論を展開した。
逆に、「朝日」は最初は軍事行動の拡大には慎重な姿勢を見せたが、途中で「木に竹をついだ」ように180 度転換し、『満州国』の独立を容認した。
満州事変前までは軍部への批判的な雰囲気もあった新聞界は「軍部自身が予想した以上の絶大なる協力」によって、挙国一致して満州事変を支持したのである。
(ハ)朝日の180 度の転換の裏には一体何があったか。その背景には陸軍幹部と一体となった右翼の総本山「黒竜会」の内田良平による「大阪朝日」攻撃と脅迫があり、その暴力、テロを恐れてた朝日は手のひらを返したように屈伏したのである。一昨年出版された
「朝日新聞社史」にはその経過が詳細に書かれている。
〔経過〕 9 月18 日 満州事変勃発
19 日 笹川貞一、大阪朝日訪問
24 日 内田良平、大阪朝日訪問
25 日 村山長挙社長出席して重役会開催
10 月1 日 社説「満州緩衝国論」の掲載
高原編集局長はそれまでの「満州は中国の一部」という社説を180 度転換して、軍部の認める「満州独立論」に切り換えた。
10月12 日 「満州事変については絶対批判を許さず」の重役会決定
13 日 編集局内で重役会決定の内容を高原局長が説明した。
高原編集局長は「軍部に協力するのか」の社員からの抗議にも「船乗りには“潮待ち”という言葉がある。いかんながら、われわれもしばらくの間、潮待ちする」と回答、毎日・本山彦一社長は10 月、満州事変は「正当防衛である」という声明をアメリカの二五の新聞に発表した。
11 月4 日には日本新聞協会が「満州事変は自衛権の行使である」との声明を各国に送った。

Ⅴ 戦争報道のおとし穴
(イ) 満州事変当時、すでに新聞は政論新聞からニュース報道中心の新聞にかわっており、大衆化、スピード化、客観報道へ進んでいたこと。
このため、事変のエスカレーションを重視、ニュース報道の名の下に次々に大々的に報道し、関東軍が作り出した既成事実を追認していく結果になった。
気がつくと、とんでもないところまできている。客観、ニュース報道=速報性の持つ陥穽にはまってしまった。
(ロ)戦争は新聞にとって最大のニュースであり、部数も大幅に伸びる。
(ハ)当時のハイテク(伝送写真)、中国からの飛行機による戦況写真のピストン輸送、写真号外などの大量の発行、センセーショナルな報道、それによる部数の増加。
(ニ)朝日、毎日の全国紙化による情報の寡占化、読売はこの段階では東京のローカル紙でつぶれる寸前を正力松太郎の経営才覚で大きく部数をのばしていた。
(ホ)過当競争⇒朝日の反軍的記事に各地の在郷軍人会が不買運動を起こし、これに毎日も加わって、朝日の足を引っ張り、部数が落ち込んだ。これも「朝日」が反軍反戦の社論を転換した一因となった。
こうした要因以上に新聞の大々的な報道によって国民の問に熱狂的な中国に対する排外熱、戦争熱のナショナリズムが高揚した。新聞の『挙国一致報道』が世論をあおる結果になった。
高原操局長の「今は潮待ち」の時であるという発言にも、満州事変を支持する世論の高まりという 「潮」をみて、このファシズム、愛国心の大きなうねりに逆らえないという、自分が作りだした状況に逆にのみ込まれていく結果になった。

5.15 事件から2.26 事件にかけての新聞
(イ)宮沢喜一前首相が半年ほど前の政治改革法案をめぐって混乱する政局をみて、犬養毅首相がテロで倒された5.15 事件の頃の政治的状況が似ていると発言したことがあった。
新聞にはアクセルとブレーキの二つの役割がある。
大きく報道することによって、国民に広く真実を知らせ、その結果、状況を既成事実化し、より状況が発展拡大していく。アクセルを踏んだのと同じで、新聞の報道が真実をより大きく「あおる」結果になりセンセーショナリズムと批判されるのもこの点である。逆にブレーキ役となり、誤った事実や方向へ行こうとするのを止める役割も持つことは言うまでもない。
満州事変で一挙に噴き出した軍部の中国侵略と、それを熱狂的に支持した国民。マスコミも挙国一致で支持し、気がついてみると状況は抜きさしならぬことになっていた。
Ⅵ 暴力とテロの頻発で言論人は縮み上がる
暴力とテロが頻発する。右翼による個人、新聞への攻撃がひんぴんとある。当時、朝日の情報局に日本刀を持ったヤクザが乱入して、編集幹部が斬られて重傷を負うという事件もあり、新聞社も自衛策として記者が木刀や日本刀、スティックを護身用に持って自衛するという手段に出ていた。
(ロ)外圧としての言論弾圧と内圧としての自己規制、自己検閲、言論萎縮の問題
これまで新聞は、外圧としての権力側の言論弾圧を強調しすぎていなかったか。確かに明治の保安条例以来、日本の新聞は極度に制圧され、昭和に入って特に、15 年戦争下では、言論取締法規によってガンジガラメにされていたために、真実を書こうにも書けなかった?との弁明が聞かれる。確かにその点もなくはない。
「5.15 事件や2.26 事件のテロや暴力に記者は戦慄してベンを投げた。これに右翼による度重なる個人襲撃があり、特高と憲兵による無法極まる妨害で記者のペンと口を封じてしまった」
「陸軍省詰めの記者ほその異動すら社では行えなかった。一人の記者を動かすにも陸軍報道部長が必ず社へどなりこんだ。情報局、陸海軍は記事の扱いかたから見出しまでにわたって、大小をこと細かく指導した。『もう勝手にしろ!』というのが心ある記者の捨てゼリフだった」
これは山根真治郎・東京新聞編集局長が昭和20 年12 月に「日本新聞報」に書いた「新聞に戦争責任はない」いう文章の一節である。
確かに、このようなテロ、暴力、記事の書きかたまで、外圧があったことは間違いないが、新聞自体、果たして記者自身はこれとどこまで戦ったのか。
外圧によって萎縮して、自己規制、自己検閲して、テロや暴力を恐れて「これを書くとやられるのではないか」と必要以上に恐れて書かなかったのではないか。つまり、過剰に恐怖心をもって、自己規制しすぎたのではないのか--この点こそ問題である。本当に書けなかったのか。書こうとしなかったのか。

Ⅶ メディアの敗北の真の原因は3つある。
昭和11 年末に毎日新聞に合併された「時事新報」という明治、大正にかけては「日本一の時事新報」とうたわれた新聞がある。
この編集局長で海軍記者として有名な伊藤正徳は、昭和9 年の「新聞総覧」に新聞の社説が最も宿指すべき時に「出来なかったJ その不甲斐なさを自ら反省しながらその原因を3 点あげている。
① 新聞人の勇気の欠如
② 言論に対する抑圧
③ 新聞の大衆転化
この中で、①特に伊藤は「新聞人の勇気の欠如」を嘆いて「新聞人が勇気を欠いたことは争えない。一般にみて、必要以上に遠慮し回避したことは争えない。刃物に刃にふれることを警戒して、手を出さず、無為に傍観した例は少なくない。言論生命のために、進攻的な勇気はあえて求めないにしても、防御の筆陣を包囲的に展開する程度なら当然、新聞人に要求されてしかるべきであろう」と述べている。
まさにこの通りで、必要以上に遠慮して、自己萎縮したのではないか。この「自主規制現象」は、昭和天皇の病気報道をみても今だに続いている。
・ 時事新報・近藤操社説部長の証言
2.26 事件以降、朝日、毎日、読売などの大新聞が沈黙して、軍部、テロ批判に口を閉ざしていた段階で、10 カ月近くにわたって60 本の社説で軍部批判のペンをとった「時事新報」の近藤操社説部長は戦後の回想でこう述べている。
近藤社説部長は軍部批判の社説を書きながら、おっかなビックリで、毎日、万一の場合を考えて、新しいサラシの巻いて出社していたが、結局、1 回しか抗議が来なくて逆に拍子抜けしたという。
こうした経験から、「各紙が筆をそろえて批判直言したならば、軍部や革新官僚に対する批判効果は必ずあったに違いない。しかし新聞は萎縮して、その言論責任を果たさなかった」と述べている。
・ 作家広津和郎の証言
2.26 事件の時に作家の広雄和郎が「中央公論」でり「百長的な笑い」と題して痛烈な新開批判の文章を番いている。
「第一の不満は今の時代に新聞が本当の事を言ってくれない不満です。日本のあらゆる方面がみんなサルグッワをはめられたように何も言わない。
信じられない記事を書くことに煩悶している問はまだいい。信じられない記事を書かされて何しろこれより外、仕方がないから』といわんばかりの八百長的な笑いをエヘラエヘラ笑っているに至っては沙汰の限りです」
以上のように、2.26 事件で、日本の言論は完全に息の根を止められたのである。

Ⅶ 日独伊三国同盟から太平洋戦争へ
2.26 事件以降、日中戦争、日独伊三国同盟、ヒトラーによる第2 次世界大戦勃発、ヨーロッパ戦線の拡大で、日本は「バスに乗りおくれるな」となだだれをうって、坂道を転がるように戦争に向かっていく。
新聞は沈黙したまま時局に流されていく。三国同盟が太平洋戦争への直接の原因となったが、緒方竹虎は「三国同盟が調印された時、日本の新聞の幹部の大多数はこれに反対であったろうと思う。日本国中、一つの新聞すらも腹に反対を抱きながら、筆で反対を唱えなかったのはいかなる悲惨事であったか」と書いている。
太平洋戦争が始まると新聞は完全に国のよる宣伝機関になり下がり、緒方自身も「(戦争に突入して)逆に良心の負担は軽くなった」と発言している。
新聞が戦争への道を抑止できるのは、戦争への開始までである。問題は戦争が始まってからではなく、戦争へいたるまでの一歩一歩の過程でジャーナリズムがどれだけ歯止めをかけたのか、抑止力を発揮したかである。
次々に起こる現象に流され、その追認に追われるだけでなく、現象の奥にひそむものを的確に見抜く見識、冷静な批判力こそ最も求められるものである。

Ⅸ・日本の新聞の特質(これまでのまとめと総括)
(1) 日本の新聞は、世界でも例のないほどの数百万部から1000 万部以上という巨大な全国紙から、地方紙まで「新聞王国」を形成している。
これをみても、商品としての新聞は確かに成功し、完成しているが、果たしてジャーナリズムとしてどこまで完成しているか、言論の自由という点ではどこまで機能しているのか。
国にも新聞にも特有の「病気」がある。例えていえば日本が15 年戦争を引き起こし、亡国したのは外的要因もさることながら内部矛盾、国民性などの「病気」によって起こったものと言えるし、戦後にまともになったのは米国という外圧によって、徹底して手術が行われたからである。
日本は自らの「病気」を自己で克服し、直して「免疫」ができたわけではない。免疫がなければ再び伝染病によって病気が再発しないとも限らない。
一時期、戦後民主主義がうたわれ、昭和の戦前と戦後は180 度転換して、断絶していることが強調された。ところが、この大手術をした米国が最近、強調しているが、日本人の国民性は、政治システム、政と官の構造的癒着の問題など、戦前、戟後は断絶しているどころか、一貫してその根底の部分では同じではないのか。
新聞も同じく自らの「病気」を克服はしているのか。新聞の体質は虚弱であり、先の「昭和天皇の病気」の際など、その病気が再発したのをみればわかる。
(ロ)清沢洌は戦時下の「暗黒日記」を書き続けたジャーナリストだが、日記の中で「この敗戦によって日本国民は果たして賢明になるであろうか」との疑問を何度も呈している。
清沢は日本人の特性として「官僚主義、形式主義、あきらめ主義、権威主義、セクショナ10
リズム、精神主義、道徳的勇気の欠如、感情中心主義、島国根性など日本人の劣性は戦後何十年かたって果たして克服されるのだろうか」と書いている。
残念ながら清沢の疑問は戦後半世紀以上たっても変わっていない。
(ハ)日本の新聞の大勢順応、画一性、迎合性 一つの有力なムード、雰囲気ができかかると、新聞はそれに反対できないムードになり迎合していく。戦時下の新聞はしかりだし、戦後の左翼に迎合した点や中国報道を見ても指摘できる。新聞が迎合してあおり立てると、ますますその空気は増幅されていき、圧倒的な空気、世論となり、少数派、批判的なものは排除され、抹殺されていく。この大勢順応、画一化は挙国一致報道となってあらわれる。国民は自らに相応しい政治を持ち、ジャーナリズムを持つといわれるが、日本の国民性とも照合している。
<紙面づくりにおいても、この画一化、同じ考え方を全面的に押しつけるのではなく、いろいろな考え方、少数意見も同じ紙面の中で紹介していく。社論として統一するのもいいが、各記者の意見、多様な言論を紹介して、意見をたたかわせていく紙面づくりが必要であろう>
(ニ)日本の新聞の持つ閉鎖的な体質、ナショナリズム、インターナショナリズムの欠如、西欧コンプレックスとアジアへの優越感など。
戦争中のウソの発表の代名詞となった大本営発表。このウソ情報のタレ流しは今の記者クラブ制度、発表づけ、レクチャーづけ、情報操作へのチェックの弱さとすべてに密接にからんでいる。記者クラブこそ大本営発表の原型ではないのか。
官庁と財界の癒着は15 年戦争中に作りされたものだが、今は「政・官・財」だけではなく「政・官・財・マスコミ」の絵癒着によって事態はニッチもサッチもいかなくなっている。
(ホ)日本の新聞は商品としては完成したが、ジャーナリズムとしては未完成品であると言ったが、言論の自由を徹底して貫き通すことが、新聞の最大の使命であることを忘却した。
戦後のGHQ のインポデン新聞課長が「日本の新聞が一斉に砲列を敷けば軍部にかくもたやすく屈伏しなかったのではないか」と質問したことがあったが、新聞人そのものに言論の自由をあくまで死守するという気概やバックボーンが欠如していた。
新聞同士で、全国紙は全国紙、全国紙と地方紙で互いに足の引っ張りあいに終始して新聞の企業性にはかり目が向いていた。
今はどうなのか。会社主義、お家大事の発想から抜け出しているのか。企業本位主我が先行して肝心のジャーナリズム精神は脱け殻になっていないかどうか。
一九九五年2月15日



ドイツは、戦前にナチスヒトラーに加担した新聞社は戦後、一度全て廃刊されたそうだ。では、日本ではどうか?

では、僕らが何をすべきか?その答えが冒頭のあのポスターに戻る。

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最後に、孫崎さんがニコブログで紹介されたニーメラーの詩をウィキペから転載したい。

【彼らが最初共産主義者を攻撃したとき】

日本語訳

彼らが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった
(ナチの連中が共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった)
私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった
私は社会民主主義ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった
私は労働組合員ではなかったから

////////////////////////////////////////////////////
彼らがユダヤ人たちを連れて行ったとき、私は声をあげなかった
私はユダヤ人などではなかったから
////////////////////////////////////////////////////

そして、彼らが私を攻撃したとき
私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった


英語訳
First they came for the communists, and I did not speak out,
(When the Nazis came for the communists, and I did not speak out,)
because I was not a communist;

Then they locked up the social democrats, and I did not speak out,
because I was not a social democrat;

Then they came for the trade unionists, and I did not speak out,
because I was not a trade unionist;

//////////////////////////////////////////////
Then they came for the Jews, and I did not speak out,
because I was not a Jew;
//////////////////////////////////////////////

When they came for me,
and there was no one left to speak out for me.

ドイツ語版
Als die Nazis die Kommunisten holten,
habe ich geschwiegen;
ich war ja kein Kommunist.

Als sie die Sozialdemokraten einsperrten,
habe ich geschwiegen;
ich war ja kein Sozialdemokrat.

Als sie die Gewerkschafter holten,
habe ich nicht protestiert;
ich war ja kein Gewerkschafter.

//////////////////////////////////
Als sie die Juden holten,
habe ich geschwiegen;
ich war ja kein Jude.
//////////////////////////////////

Als sie mich holten,
gab es keinen mehr, der protestieren konnte.







放送法http://www.houko.com/00/01/S25/132.HTM#s2
第4条 放送事業者は、国内放送及び内外放送(以下「国内放送等」という。)の放送番組の編集に当たつては、次の各号の定めるところによらなければならない。
1.公安及び善良な風俗を害しないこと。
2.政治的に公平であること。
3.報道は事実をまげないですること。
4.意見が対立している問題については、できるだけ多くの角度から論点を明らかにすること。

NHKふれあいセンター(ナビダイヤル)0570-066-066
上記ナビダイヤルをご利用になれない場合は050-3786-5000へおかけください
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